JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク

【館外】東京大学総合研究博物館モバイルミュージアム『理學部博物塲 – 第一号は千代田区から生まれた』

2024.02.15-2025.02.28
千代田区役所(6階 区長室前)

 この度、千代田区内に所在するインターメディアテクの開館十周年を機に、千代田区の協力により、本モバイルミュージアム展示が実現しました。本展示は、インターメディアテクの学術研究活動を担う東京大学総合研究博物館と千代田区との初めての地域連携および学術連携事業となります。

主催:東京大学総合研究博物館

千代田区役所へのアクセス:
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/gaiyo/access.html


●理学部博物場とは
 明治10(1877)年に創学された東京大学は、当初、東京・神田区一ツ橋(現在の千代田区一ツ橋)にあった。草創期の東京大学にて、西洋の近代的な学問の導入に寄与したお雇い外国人教授の一人で、初代動物学教授を務めたアメリカ人動物学者のエドワード・シルヴェスター・モース(1838−1925)は、大学には付属の博物館が必要であると提言し、明治13(1880)年に日本第一号の大学博物館である理学部博物場が設置された。つまり、千代田区が日本の大学博物館誕生の地となる。
 博物場は、はじめは大学の授業での利用や生徒の閲覧に供され、明治14(1881)年の第二回内国勧業博覧会を契機に有志者にも公開された。陳列室は「金石」「地質及古生物」「動物」「植物」「古器物」「製造化学標品」「土木及機械学模型」「採鉱及冶金学模型」の八つに区分され、そこに展示された標本・模型の総数は3万点以上にのぼる。
 明治12(1879)年に東京大学を退職し離日していたモースは、明治15(1882)年に日本を再訪し、完成した博物場を見て、自分が考えていたものよりも遥かに良く出来上がっていたと感心したと言う。しかし、博物場の存続期間は5年余りと短く、理学部の本郷への移転に伴い、明治18(1885)年7月に閉場した。
 さりながら、千代田区生まれの大学博物館の歴史は今日まで続く。博物場では、その開場以降、各分野で標本目録が鋭意作成された。現在、東京大学総合研究博物館には、金石(鉱物)、地質、古生物、古器物(考古学)の博物場目録に掲載されていた標本が数多く残されている。古器物(考古学)の博物場目録掲載の標本の一部は、文京区本郷キャンパス内の東京大学総合研究博物館本館および千代田区丸の内のインターメディアテクにて展示公開している。

特別公開『モース日本陶器抄 – 東京大学コレクションから』
インターメディアテク3階「MODULE(モデュール)」
http://www.intermediatheque.jp/ja/schedule/view/id/IMT0272


●モバイルミュージアムとは
 ミュージアムを社会の中に出していくというコンセプトに基づく、ネットワーク型の新しい空間哲学を先導するプロジェクトである。モバイルミュージアムの展示は、東京大学総合研究博物館とさまざまなコラボレイターとの協働により、これまで世界各地で展開されている。
www.um.u-tokyo.ac.jp/mobilemuseum/top.html

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