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HAGAKI
研究者コラム

未完成の定義
Definition of Unfinished Work

 特別公開『カトレヤ変奏―蘭花百姿コロンビアヴァージョン』の3回目の展示更新では、『蘭花譜』より、「リンコレリオカトレヤ・エンプレス・オブ・ロシア『オオヤマザキ』」(写真左)を公開する。淡いグレーの背景に白い花が目を引く多色刷り木版画である。唇弁に注目してみると、フリルの細かな形状や黄色のグラデーション部分のぼかしによる色彩の表現は見事の一言に尽きる。この花の左には、角度を変えてやや右から見た花が線画で表されている。植物画では、彩色画に比べて線画は植物の構造的特徴が捉えやすい。そのため、歴史的に名高い植物学雑誌『カーティス・ボタニカル・マガジン』など、西洋で18世紀後半から19世紀頃に作られた、銅版や石版に手彩色された植物画を見ていても、メインとして配置した植物と重ねて後ろに、あるいはその脇に描かれた同じ植物や部分拡大図は彩色されていないことがままある。本図の花の表現もそういうことだろうと何となく思っていたところ、ミシガン大学美術館所蔵の『蘭花譜』のデジタルコレクションの解説に、本図について、中央の花の後ろに色がついていない別の「スケッチ」された花があるのは、これが未完成のイメージの一つであったことを示すと書かれているのを見つけた。私が確認した限り、『蘭花譜』の木版画83点のうち、本図を入れて8点に同様の未彩色の線画部分がある。確かに、美術作品として眺めると、これらの線画部分はいかにも本来彩色されるべきだったのにそれが施されていない未完成絵画のようにも思える。しかし、下絵から何種類もの版を作り、それを刷り重ねる木版画の制作工程を考えれば、『蘭花譜』を手がけた加賀正太郎も、彫師・摺師も、これらの図を完成させて世に送り出しているはずである。ただし、最初に私が受け止めていたように、植物の構造的特徴を伝えるために部分的に線画で表したと言ってよいかどうかは定かではない。本図と一緒に展示する「カトレヤ・メンデリー『グロリア・ムンディ』」と「レリオカトレヤNo. 106『オオヤマザキ』」(写真右)では、同じような構図で正面を向いた花と角度の異なるもう一つの花の両方に彩色が施されている。想像の域を出ないが、日本の伝統文様にある破れ垣のように、不完全なものに美しさを見出す美意識のもと、『蘭花譜』のなかに本図のような表現が一部取り込まれたのだとしたら、完成しているが未完成という形容も的確となるかもしれない。第3回展示は3/28−4/23まで。

寺田鮎美(東京大学総合研究博物館特任准教授)
Ayumi Terada

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