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HAGAKI
研究者コラム

肖像を掲げる
Display of Portraits

 特別公開『独逸医家の風貌』(2022年9月13日−12月11日)にて展示した肖像のなかに、サーベルを携帯する軍服姿のポンペを写した石版印刷がある(写真左上)。近代医家三宅一族旧蔵コレクションの一つである本肖像は、下部の印字より、オランダのデンハーグで作られたものであることがわかる。オランダの海軍軍医であったポンペは、安政4(1857)年に長崎に来日し、西洋医学伝習の教師として、独逸医学の導入以前に日本近代医学の発展の礎を作る。その間に日本で撮影された写真(『ポンペ日本滞在見聞記』の口絵)に同じく軍服姿のものがあるため、このようなポンペの軍服姿は長崎で彼の門人も見る機会があったものかもしれない。東京帝国大学医学部教授を務めた入澤達吉による、昭和4(1929)年のポンペの生誕百年記念演説の文字起こしが、同年の『中外医事新報』第1148号に残る。そのなかに、彼の父・入澤恭平がポンペに従学した一人であり、入澤家の神棚の脇にポンペの肖像が掛けられていたのを子どもの時から見て育ったという回想がある。入澤が演説の際に持参して聴衆に見せたという肖像を掲載した図版によれば、入澤家で達吉少年が見ていたポンペの肖像は、『独逸医家の風貌』展に展示したものとほぼ同じであるが、左胸の勲章が一つと数が少ない。ポンペの肖像は石版印刷でヴァージョン違いが作られるほど需要があり、実際に流布していたのだろう。入澤の回想は、家のポンペの肖像が戊辰戦争でも焼けず、関東大震災でも土蔵に入れてあって無事だったことにも触れている。肖像を残し、それを掲げ、長きにわたり大切に扱う。このエピソードは、ポンペがその門人や日本の医学関係者にいかに敬愛されてきたかをまさに物語るものにほかならない。『独逸医家の風貌』展で公開した、三宅家に伝わったポンペの肖像がどのように扱われていたかは調べることができていないが、状態の良さからして大事にされていたことは間違いないだろう。ミュージアムが未来に守り継ぐ資料である肖像画や肖像写真には、このような人々の「想い」も伝わっている。

寺田鮎美(東京大学総合研究博物館特任准教授)
Ayumi Terada

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