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HAGAKI
研究者コラム

オオイヌノフグリ(オオバコ科)

 春に道端でよく見かける小さな青い花の名前を子供の頃に覚えようとした時、魔法の呪文のような長い名前だなと思いながら丸暗記した。図鑑か何かを頼りにしたのだと思うが、「オオイヌノフグリ」と片仮名で書かれた文字を見ても、どこで切って読めばよいのかわからなかったし、幼い私には名前の意味を考えようという発想がなかった。時が過ぎ大人になって、山岸涼子の短編漫画『天人唐草』を読み、「大きな、犬のふぐり(陰嚢)」というその花の名前の意味を初めて知った。主人公の岡村響子は、子供の頃、その意味を知らずに、友人から聞いた「イヌフグリ」の名前について母親に尋ねる。しかし、母親は「天人唐草」という別の名前があるからそっちの名前の方がいいとはぐらかしてしまう。「変なの。なんでわざわざそう呼ぶの?イヌフグリがおかしいから?」と響子が言うと、横から父親が「女の子がそんな言葉を口に出すもんじゃない」と怒鳴りつける。一事が万事、戦後民主主義の風潮の中にありながら、男尊女卑で世間体を重んじる父親とそれに従順な母親に育てられ、自分のやること全てに自信をもてずに大人になった響子は、最後は狂気というオリの中に解放される。この物語は、悲劇を通り越してホラーにさえ思えるインパクトであった。オオイヌノフグリは外来種で、日本原産のイヌノフグリよりも大きく、これに似ていることから付いた和名である。植物画家・山田壽雄による本写生図の裏面には「オホイヌノフグリ 自然大 大正3.6.1 田端.」との書付がある。全体図を描いた右には、花が二輪と、貼付の別紙に果実期が描かれている。山岸作品にはイヌノフグリの花しか登場しないが、その名の由来になったのは果実である。本図では若く緑色をしているので「犬のふぐり」にはすぐに結びつかないような気がするが、形からそう呼ばれたのはわからなくもない。私にとっては幸い、名の由来はこの植物をもっとよく知りたいという動機付けとなったが、天人唐草とのみその名を呼び続け、果実を観察する機会を人から与えられることも自ら求めることもなかった響子の人生を、本図に貼られた小さな紙片からそっと思いやった。

寺田鮎美(東京大学総合研究博物館特任准教授)

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