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HAGAKI
RESEARCHERS COLUMN

記憶の蓄積
Accumulation of Memories

 ローマの東方30kmにあるティブル(現ティヴォリ)は古代ローマ時代から貴紳の保養地として知られる。皇帝ハドリアヌスは即位後の118年にこの地で自身のヴィラの造営を開始した。先代のトラヤヌスのときにローマ帝国は最大版図となるが、ハドリアヌスは帝国拡大から国境防御へと基本戦略を転換する。英国北部のハドリアヌスの長城など各地に建設されたリメス(防御壁)はその成果である。ハドリアヌスは在位中の多くの期間を属州の巡察に費やし、各地で造営や修復の事業を指揮した。一方で彼はティブルに戻ると、訪問した属州での記憶を建築として再興していった。たとえば、アテナイのアゴラの柱廊やエジプトの運河を模したカノポスなどが規模を縮小してつくられた。ほかにもアカデメイアやリュケイオンなど、巡察地に関わる名を与えられた多数の場所が組み込まれていた。もはや「別荘」という建築単体のスケールを超え、ハドリアヌス自身の記憶が集積され、ローマ帝国の原風景が縮約された場所として遺されたのである。こうしてティブルのヴィラでは、長年にわたる個人の想い出が空間的に再創造され、比類なき複雑な全体性をまとうことになる。いま現地に赴く者は、記憶が蓄積された廃墟の都市をひたすら歩きわまる。そのなかで全体の結節点となるような場所がある。「海の劇場」という名の円形の施設は、水路で囲われた皇帝の隠棲地である。政治と情愛と病苦に難渋した皇帝は、晩年は此処に籠ることが多くなる。『ハドリアヌス帝の回想』でユルスナールは皇帝の回想を「さまよえる いとおしき魂」という言葉で締めくくっている。広大な世界の記憶が一人の人間を介して強い場所性へ凝縮される。博物学への普遍的な問題提起のように思えてくる。

松本文夫(東京大学総合研究博物館特任教授)
Fumio Matsumoto

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