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HAGAKI
RESEARCHERS COLUMN

シロバナハクサンチドリ(ラン科)

 20世紀後半を代表する詩人で、ルーマニア(当時)にユダヤ人として生まれ、母語のドイツ語で詩作を行ったパウル・ツェランの詩「トートナウベルク」のなかに、「ハクサンチドリ、ハクサンチドリ」(1972年、飯吉光夫訳)と繰り返されるフレーズが出てくる。トートナウベルクとは哲学者ハイデガーが大半の著作を執筆した山荘があった場所のことで、この詩はツェランがハイデガーとの対話を期待して彼の地を訪れた後に著し、ハイデガー本人に送っている。晦渋な作品であるが、ナチスとの関係について最後まで沈黙したハイデガーに対するツェランの絶望や批判を含んでいるというのは多くの文学者・翻訳者の言及するところである。ドイツ語の原文では「Orchis」と書かれており、これを「蘭」と訳すか「ハクサンチドリ」とするかは、翻訳者の解釈が加わってのことになる。ツェランが実際に見た花のことを描写する意図をもっていたのか、それが紅紫色なのか、山田壽雄が描いた本写生図のように白色だったのか。本図の裏面には「大正五.六.廿」という制作日や実寸大であることを示す「1/1」の書込み等に加え、「葉の表面は若き緑(一号) 裏は淡ク,稍や濃き并行脈アリ.」という色についての具体的なメモがある。本図の第一印象としては、輪郭線の緻密さに比べ、彩色はさっと簡単に撫でたような筆運びに思えたが、花部の後ろを左右に跨る葉に注目すると、葉の裏に用いられている緑色は表面に比べ淡く、少し濃い色で単子葉植物によく見られる平行脈が描かれているのがわかる。ツェランの詩に隠された意味もこんなふうに見て取れる瞬間のようなものが私に来るだろうか、としばしこの図を見ながら考えに耽ってしまった。現在、本図は特別展示『蘭花百姿−東京大学植物画コレクションより』にて公開中である。

寺田鮎美(東京大学総合研究博物館特任准教授)

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