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HAGAKI
RESEARCHERS COLUMN

インターメディアテク・レコード・コレクション(2)
黒鳥が「カラー・ライン」を超えた時

 ジャズ史は様々な観点から語られてきたが、ジャズの成長とともに生きた当事者たちは、生演奏のほか、ラジオとレコードを介してこの新たな音楽と接した。いまいちど「レコード」というものに立ち戻り、それを基軸にジャズ史を辿ると多くの発見がある。まずは、その黎明期においてジャズを実際に生み出した黒人ミュージシャンに録音の機会がほぼ与えられなかったことが分かる。ニューヨーク・ハーレム地区の「コットン・クラブ」をはじめ、名会場が黒人ミュージシャンと褐色の肌のダンサーを舞台に立たせながらも白人客のみを受け入れていたように、レコード会社も明確な差別を行っていた。1920年大ヒットしたマミー・スミスの「クレイジー・ブルース」を皮切りに黒人音楽のレコードが普及しても、それらは「レース・レコード」として別扱いされた。しかし、米国社会そしてジャズの基本条件であった「カラー・ライン」を早くも超えた男がいた。音楽出版社ハリー・ペースは1921年にハーレムで初の黒人経営によるレーベル「ブラック・スワン(黒鳥)」を立ち上げ、レコーディング・マネジャーとしてフレッチャー・ヘンダーソンを起用した。これが黒人によるいわゆる「インディー」系の先駆けとなった。

大澤啓(東京大学総合研究博物館特任研究員)

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